ベイエリアの歴史(20) – スタンフォード・インダストリアル・パークの創設

フレデリック・ターマンの金儲け ヒューレットとパッカードを励まして、HPを設立するきっかけを作ったのは、スタンフォード大学電気工学のフレデリック・ターマン教授でした。ターマンは、学生がせっかくスタンフォードを卒業しても就職先が東海岸にしかなく、カリフォルニアに定着できないという事態を解消するために、自分の教え子に自ら起業することを勧めていたのでした。

無線の専門家であったために、第二次世界大戦中はハーバード大での軍事用無線の研究に従事していましたが、戦争が終わってスタンフォードに戻り、電気工学学部長となりました。当時、スタンフォードはまだまだ「リージョナル大学」、つまり全国区ではなくその地域の学生だけが主に集まるタイプの大学でした。そのスタンフォードを工学部門で全米トップクラスの大学にするため、ターマンは20年計画を立案し、教授陣の給与引き上げ、学生のための奨学金、研究設備や教室の充実などを推進しました。

いずれも先立つモノが必要なことばかりですが、当然今のスタンフォードのように金持ちの卒業生がいっぱいいて寄付金がバンバン集まるという状況ではなく、スタンフォードはおカネに困っていました。そこでターマンは、スタンフォードの広大な敷地の一部を開発して、そこから賃料収入を得ることを計画します。これが、1953年にできたスタンフォード・インダストリアル・パーク(現在はスタンフォード・リサーチ・パーク)で、世界最初のテクノロジー企業向けオフィス・パークとなりました。スタンフォード・インダストリアル・パークは、企業が入居するオフィスと、スタンフォード・ショッピング・センターやアパートなどから成っていました。ターマンが個人で儲けたわけではありませんが、ここでもカリフォルニアの「土地投機/不動産開発」の伝統芸が発揮されたというわけです。

シリコンバレーの父

最初の入居企業は、ターマンの教え子が起業したレーダー・電磁波機器の会社、ヴァリアン・アソシエーツでした。ヴァリアンはその後3つの会社に分割され、そのうち2つは買収されて名前が消えていますが、現在でも医療機器のヴァリアン・メディカル・システムズが独立で生き残っています。ヴァリアンの創業者は当時としては進歩的な考えをもっており、利益分配制度、従業員持ち株制度、従業員健康保険、年金制度などの福利厚生をいち早く導入したことで知られていました。ヴァリアンの初期の頃、スティーブ・ジョブスの母、クララ・ジョブスが働いていたことがあるそうです。

インダストリアル・パークにはその後、HP、イーストマン・コダック、GE、ロッキードなどが入居しました。1950年代終わり頃には、ロッキードはこの地域で5000人の従業員を抱える、最大の雇用者となりました。スタンフォード大のあるパロアルト周辺は、果樹園から急速にテクノロジー企業の町へと変貌していきます。

ターマンは1965年に引退するまでスタンフォード大学の運営に関わり続け、1982年に82歳で亡くなりました。彼の目論見どおり、この頃からスタンフォードは、全米大学ランキングを駆け上がっていき、卒業生が創設した企業が育っていきます。そして彼はインダストリアル・パーク構築の功績により、ウィリアム・ショックレーと並ぶ「シリコンバレーの父」の一人として知られています。

<続く>

出典: Wikipedia、NPRStanford NewsStanford OTLHP